1825年1月27日、米国議会は(現在のオクラホマ州にある)「インディアン特別保護区」を承認した。
先住民たちを強制的に移住させる政策は、もっと早い時期から始まっていたが、その規模の大きさからか、米国南東部にいた複数の先住民集団のミシシッピー川西側への大移動はもっともよく知られている。彼らが移動した旅路は、「涙の道」(Trail of Tears)と呼ばれる。
1830年代初め、米国の南東部、フロリダ州、ジョージア州、テネシー州、アラバマ州、ノースカロライナ州などには約13万人アメリカ先住民(チェロキー、セミノール、チョクト―、ムスコギ―など)が居住していた。しかし、それから10年も経たないうちに、彼らのほとんどが先祖代々暮らしてきたホームランドを去った。移動先は、ミシシッピー川の西側に新たに設けられた「インディアン特別保護区」 (”The Indian territories”)。強制退去の背景には、先住民たちが住む場所で金鉱が発見されたことや、綿花やサトウキビ栽培のための耕作地が必要だったことがある。つまり、従来の場所に先住民たちが留まっていては米国の発展を阻むことになる、として該当地区に住む先住民集団の強制移住が実行されたのである。
その移動は、厳しい自然環境の中で、川を渡り、山を越えという命がけの旅となった。疲労、絶望、不安、恐怖。心身ともに極限状態となった上に、コレラ、天然痘、赤痢などの感染病が流行り、15,000人以上が亡くなった。
さまざまな先住民集団が通過していったアーカンソー州では、「インディアンたちがとうもろこし畑に火をつけている」「鉄道の枕木をはずして焚火をしている」という噂が白人たちの間に広がり、「インディアン」(先住民)に対する差別や偏見は、この大移動によって一層強まることになった。また、先住民にウィスキーを売りつけよう、ギャンブルをしかけて儲けようという荒手の商売人たちもこの地にやってきて、先住民集団の後を追ったという。
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